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あの人は/読売新聞(夕刊)1993年6月25日 の記事より
水俣病告発の闘士 宇井 純さん
東大「公開自主講座」 学生らが大学の管理運営の改革、大学自治、帝国大学解体などを叫んだ「東大紛争」の翌年の昭和四十五年から始まった。勤め帰りのサラリーマンやOL、他大生らが詰め掛け、諸悪の根源は東大だとする「東大解体論」もテーマとなるなど、東大としては前代未聞の講座。十五年間、約三百回続き、二万人が聴講した。講義録は各地の運動の教科書となった。
(写真1:東大の「公開自主講座」で公害原論の講義をする宇井助手(昭和45年) 2:沖縄大学の浄化槽の水質検査をする宇井教授。反公害運動の闘士は、水の専門家でもある。)※注※ 記事では写真が掲載されていました。
天井の八つの扇風機が回る中、教室いっぱいの約二百人の学生が黙々とノートに書き留める。今時の大学には珍しい、熱のこもった「公害論」の講義だった。
「被害者の立場から出発しなければならない」。原因企業に「加担」した学者を名指しし、批判していく。全地球的な海の水銀汚染も論じる。「体験に基づいた先生の講義は重みがある。一番人気のある授業です」と受講生の一人。
水俣病告発の闘士だった宇井純さん(61)が、東大工学部の万年助手から那覇市の私立・沖縄大学教授となって七年。かつての童顔にもしわが増えたが、権威をなで切りする姿勢は少しも変わっていない。
復帰後、海や川の汚れが深刻化する沖縄。ぜひとも専門家に、と大学側の強い招きで「苦労するなら南のはてがいい」と決意した。
象牙(ぞうげ)の塔の象徴だった東大を市民に開放し、「公害原論」の公開自主講義をする宇井助手は、東大紛争後は”反乱分子”と見なされた。二十年余、助手のまま。一切の昇進はなかった。
「普通に昇進していたら、普通の教授で終っていただろう」。被害者と運動し、何度も「コンチクショウ」と悔しい思いをしてきた。が、「被害者と構えずに話ができたのは、助手だったから」と悔いはない。
もともとは、応用化学を学んだエンジニア。北陸の化学工場で現場技術者として行程で使った水銀塩を未処理のまま洗い流したことがあった。再び母校で勉強したくて、三年ほどで退職。しばらくして、水俣病の有機水銀説を知る。
「謝罪の気持ちで水俣病を追いかけた」。水俣を歩き、患者の話を聞く。だが、患者たちは容易に心を開こうとしない。雨の日も風の日も朝から晩まで、じっと患者の家の戸口に立った。
そんな姿が水俣在住の作家、石牟礼道子さん(66)の脳裏に焼きついている。「後で化学者とわかり、水銀といえば体温計しか知らなかった私たちが、専門的な知識を得るのにどんなに役立ったことか」
水俣病補償問題に抗議して厚生省に座り込んで逮捕されたり、ストックホルムでの国連人間環境会議に水俣病などの患者とともに参加し、その惨状を世界に知らせた行動派だった。
「東大と一緒にすっ転ぶつもりだったが、巨大組織を私一人で倒せるはずがない。もう、ほとほと付き合いあきた」。七〇年代の東大生は先生の中身で判断してくれたが、八〇年代の学生は教授、助手の肩書で判断するようになったことも、その思いを強くした。
同じ工学部出身で、自主講座の講師も務めた吉川弘之東大総長(59)は、「工学は世間と切り離された学問ではなく、技術とイデオロギーは深い関係があるという宇井さんの考えには賛同していた。でも、一種の理想主義に走り過ぎた」と振り返り、「彼を扱い切れなかったのは、東大の限界だった」と話す。
「南のはじにいると、かえって日本の姿がよく見えてきた」という。「ODA(政府開発援助)一つとっても、沖縄への援助と同じで、現地の実情に合わない。図体のでかい、始末の悪い国になってしまった」。優しい表情から、辛らつな言葉が飛び出す。
「水質改善技術」だって、ヤマトのものは西洋のまねで、南の国にはコストが高すぎる。東南アジアを視野に入れると、東京より沖縄での研究がずっと役立つ」
二年前、「長年のストレスがたまって」心臓の手術を受けたが、好きな泡盛が飲めるまで回復した。
近く、最新の公害論の講義を一冊にまとめ、英訳して世界に問う。主流を歩まなかった人生を誇りに、「日本の少数派がいかに公害と闘ってきたか」、その軌跡を書き記す。(斉藤勝久)
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